校歌

大阪府立八尾北高等学校校歌

作詞・作曲 高石ともや

一、生駒の緑 波打つように
  私の青春(はる)が ここにある
  息をはずませて 君がかけて行く
  新しい新しい 夢を目ざして
  八尾北高 今がはじまり
  八尾北高 ここがふるさと

二、宇宙を駆ける 翼のように
  胸にかがやけ いちょうのしるし
  汗は流れたか 涙かわいたか
  ひたすらにひたすらに 生命(いのち)燃やして
  八尾北高 今がはじまり
  八尾北高 ここがふるさと

三、ふりかえれば 萱振(かやふり)の地の
  人の暮しは 今につながる
  この街で育ち 生きて行くのなら
  やわらかなやわらかな 心のままに
  八尾北高 今がはじまり
  八尾北高 ここがふるさと

八尾北校歌ものがたり

文責:阿形恒秀(平成17年夏)

校歌誕生の経緯

本校の校歌、作詞・作曲は、フォーク・シンガーの高石ともやさんです。と言っても、残念ながら、最近の高校生は「って誰 ?」という反応の方が多いようです。けれど、高校生くらいの子を持つ親の世代の人たちなら、誰もが知っている存在、今の音楽の世界で言うなら(持ち味は違うけれどフォークの世界での知名度という意味で)「ゆず」「コブクロ」のような存在です。
プロの方の作品ですが、「お金をかけて有名人に依頼した」わけではありません。高石さんのスキー仲間の一人が当時の本校教諭で、雑談の中で高石さんが本校にまだ校歌がないことを知られて、「それならぼくも応募してみよう」とお考えになったそうです。ちなみに、高石さん作の校歌は、全国で、高校では本校だけ、それともう一つ、札幌市立西園(せいえん)小学校の校歌を作っておられます。
昭和58(1983)年に開校した本校では、学校づくりを進める中で、昭和59(1984)年秋に音楽・国語等の6人の教師で校歌制定委員会を立上げ、歌詞を新聞で一般公募、高石さんの作品も含め計12編の応募がありました。校歌制定委員会はこの中から3編を選び、応募者の名前は伏せた形で、全校生徒・教職員・PTA役員で投票、高石さんの歌詞が最も多くの支持を得て、本校校歌の歌詞が決まりました。そして、その後、高石さんは曲づくりにも取り組まれ、昭和60年(1985年)3月、体育館完成・校歌制定記念式で、高石さん自らが真新しい体育館の舞台で、校歌を披露してくださいました。

翌年の第一回卒業式、1期生代表生徒は答辞でこう語ってくれました。
「偏差値がいくらやから入れる、入れないの学校じゃなくて、いつまでも人間を大事にする学校で八尾北はいてほしい。オレはこの学校が好きやし、この学校の先生も好きや。八尾北全部が好きや。こんなすばらしい学校は初めてや。だから、もっともっとええ学校にして欲しい。校歌を作ってくれた高石ともやさんもそう思っていると思います。『この街で育ち 生きていくのなら やわらかな やわらかな 心のままに 八尾北高 今が始まり 八尾北高 ここがふるさと』。この歌を、このすばらしい校歌の心を大事に守っていかなあかんと思います。先生、こんなオレらのために、今までほんとうに、ありがとうございました。オレらは、八尾北に、この学校の先生に誇りを持って卒業します。」

以降、現在に至るまで、八尾北の教師も生徒も、この校歌には幾度となく元気づけられてきました。
学校行事の締めくくりはもちろん校歌。ある年の文化祭の後夜祭のフィナーレでは、教員バンドのロックバージョンの校歌に続き、舞台上に生徒会役員などが全員あがり、学校長を中心にスクラムを組んでの涙の大合唱となりました。ある年の3年生の予餞会(3年生を送る会)でも、最後には会場ホールの舞台上で、3年間への思いを共有しながら教師・生徒が全員で校歌を歌いました。
また、あるときは、突然、正門付近から職員室に聞こえてくる大声、何事かと足を運ぶと、事情があって退学していく生徒を見送る級友たちの、涙声での校歌の大合唱…、そんなこともありました。
このように、八尾北高校校歌は、八尾北に縁のあった人々の心の深い層に刻まれながら、たくさんの教師とたくさんの生徒に歌い継がれてきた、本校のシンボルです。

歌詞1番

生駒(いこま)の緑 波打つように 私の青春(はる)が ここにある
息をはずませて 君がかけて行く 新しい 新しい 夢をめざして
八尾北高 今がはじまり 八尾北高 ここがふるさと

 『生駒の緑 波打つように 私の青春(はる)が ここにある』。大阪府東部の八尾市に位置する本校からは、生駒山脈の美しい景観が望めます。高石さんは、歌詞を書く参考にと、昭和59(1984)年秋に建設工事中の本校に立ち寄られ、校舎の屋上から生駒の山並みを眺め、また本校の教員と対話される中で、イメージを膨らまされたそうです。
息をはずませて 君がかけて行く』。高石ともやさんの作品に「春を待つ少女」という名曲があります。その中に「光る花は ねこ柳 春の陽を待ちながら 駆ける娘は 光の中 どこへ行く娘」という歌詞があります。高石さんは「ねこ柳を雪の中で見つけた暖かさは、何物にもかえがたい。逆光の中に銀色に輝くさまは、花のイメージを越えているのです。雪にとざされた季節は、春を待ち続ける願いが、緑色が見えはじめたときの喜びを、いっそう、はずませます。」と書かれています。 私は、校歌の『息をはずませて 君がかけて行く』の部分で、いつも、「春を待つ少女」の歌詞のイメージを重ねて思い浮かべます。受験、合格、そして高校生活の始まり。『私の青春(はる)』『新しい夢』を思い、この学校でよりよく生きたいと願って入学してくる生徒たちと、私たちは丁寧に向かい合っていきたいと思っています。
八尾北高 今がはじまり 八尾北高 ここがふるさと』。「依存」と「自立」は、一般的に対立する概念のように考えられがちですが、そうではなく、「ほどよい依存ができるからこそ自立が可能になる」ととらえる方が、人間の在り方がよりよく見えてくるように思います。たとえば、幼児期の子どもは、親の目の届く範囲に居るという安心感(依存)があるからこそ、探検・冒険・遊びなどの行動(自立)をとれるものです。このような、「安心感のある依存が自立を可能にする」というテーマは、質は変わっても、人間の一生のどの時期においてもあてはまるものではないでしょうか。私たちは、八尾北高校を、生徒にとっての本当の「安心基地・安心基盤」=『ふるさと』にしていきたい、そして、卒業してからは自分の問題をしっかりと引き受けていく自立した人間を育んでいきたい…と願っています。

初代校長の岡崎良勝先生は、創立10周年記念の座談会で、次のように語っておられます。
「10年たっても、ここにはいつ来ても気持ちがほっとします。この学校には多くの人の思いがあります。思いがあるから、ここが心のふるさとです。生徒と教師が長い目でつきあえるような関係であってほしい。『がんばれ、しっかりやれ、負けるな、勝て』ばかりじゃなく、高石ともやさんが言った『一緒にやろうじゃないか』という気持ちを大切にして欲しいと思います。」

歌詞2番

宇宙を駆ける 翼のように 胸にかがやけ いちょうのしるし
汗は流れたか 涙かわいたか ひたすらに ひたすらに 生命(いのち)燃やして
八尾北高 今がはじまり 八尾北高 ここがふるさと

 『胸にかがやけ いちょうのしるし』。大阪府の木であり八尾市の木でもある「いちょう」の葉をデザインした校章は、若者の成長と可能性、本校の限りない発展を象徴しています。
汗は流れたか』。本校正門の西側の庭園に、校訓「流汗求道(るかんぐどう)」が刻まれた石碑があります。建設工事を見た地元住民の方から、「ここにできる高校のために役立ててください」とご寄付をいただき、建設した校訓碑です。校訓「流汗求道」は、ひたむきに汗を流し自らの道を切りひらいていく態度・心意気を意味しています。
涙かわいたか』。この部分が好きな生徒も少なくないようです。「泣くな」ではなくて、泣きたいほど悲しいときは、泣けばよい、でも、『』もいつかはとまる、悲しみをしっかりと悲しみきって『涙かわいた』ら、また、『いのち燃やして』いこう…というエールに、励まされるのだと思います。

歌詞3番

ふりかえれば 萱振(かやふり)の地の 人の暮らしは 今につながる
この街で育ち 生きて行くのなら やわらかな やわらかな 心のままに
八尾北高 今がはじまり 八尾北高 ここがふるさと

 『萱振』というのは、本校の所在地の地名「八尾市萱振町」です。
萱振の地の 人の暮らしは 今につながる』、人が生活する『』・生きていく『』は、その人だけのステージなのではなく、それまでも幾多の人々がそこに居て、生きて、託し、土に返っていったステージにほかなりません。どんな『』にも、長い年月の中で人々が積み重ねてきた『暮らし』があり、『暮らし』の中から生み出した文化や歴史があるものです。
萱振の『』にも、長い歴史があります。本校建設に先立って行われた文化財発掘調査では、縄文時代から室町時代に至る遺構・遺物が数多く検出され、中でも、古墳時代前期の1辺27mの「萱振一号墳」は河内平野では最大の方墳でした。「萱振一号墳」を保存するために、校舎の位置を変更し古墳公園として整備、生徒たちの憩いの場となっています。
また、八尾北高校は開校以来、地域に根ざした学校づくりをめざし、地域の人々を講師としてお招きしたり、地域の諸施設に出向いて交流・実習を行うなど、地域連携を大切にしてきました。
高石さんは、『人の暮らしは 今につながる』というフレーズを通じて、「地に足を着けて生きる」「地域の人々の智恵・願いを大切にして生きる」ことの大切さを表現されているのだと思います。
ある教諭は、卒業文集で、こんな言葉を卒業生に贈りました。
「『人の暮らしは 今につながる この街で育ち 生きて行くのなら…』校歌の3番の歌詞である。卒業してそれぞれの道で活躍する事だろう。でも、いつも君たちはどこかの地域の一員である事を忘れないでほしい。卒業おめでとう。これから君たちは様々な地域で暮らす事になるだろう。そんな時、八尾北高校の校歌を思い出して欲しい。君たちからよく聞いた『ありがとう』という言葉を大切にして。」
やわらかな心』。校歌の歌詞の中でも、最も印象深いフレーズの一つです。高石さんは、この言葉に、「かたい心」つまり、「柔軟性のない」「こり固まった」「他をはねのける」心の対極にある、自分も他者も大切にする人間性豊かな心という意味を込められたのではないかと思います。
やわらかな心』は、今や、本校のスクール・アイデンティティを象徴するキーワードとなっています。PTAで作ったお揃いのハッピ、背中には「やわらかな心の総合学科」というロゴが入っています。平成17(2005)年3月に完成した福祉実習棟、設計を担当してくださった方は、「『やわらかな心』を育む施設づくり」を設計コンセプトとされ、曲線(たとえばゆるやかな曲線屋根)・楕円(たとえば楕円形のドアの窓)のデザインや、自然光を取り入れる工夫など、福祉マインドを育むのにふさわしい『やわらかな心』の建物を考案してくださいました。

校歌と八尾北高校の願い

平成4(1992)年、創立10周年記念式典で、高石ともやさんは校歌を歌ってくださいました。そのとき、壇上から、このようなメッセージをくださいました。

 百何十ほど自分の歌があるんですけど、歌っていうのは、子どもみたいなもんで、とってもいい歌でも、好かれない歌があります。しょうもないのに、みんなに歌われる歌もあります。1年に1回は、全部、自分の歌を歌ってあげます。八尾北の校歌は、こんなに大勢の人に歌われています。幸せな歌です。
歌も育ちます。今日、10年経って、きっと育ってることだと思います。10年前、ぼくは40歳でした。トライアスロンが初めて日本に来て、最初の大会が鳥取であって、優勝して喜んでいたときなんです。息子が6年生、娘が中学生でバレーボールやっていて…。今、その男の子が、10年経って21歳です。一生懸命、ラグビーばかりやってます。ねえちゃんも、福祉学科へ入りました。一つの歌が10年経って育っていくように、子どもも育っていきます。今日、ここにいない卒業生も歌ってきたんだなと思いながら、歌います。10年・20年…、時代に勝てるかな-とか思うと、とってもこわいんですけれど、ぼくも誇りを持って、この歌はいい歌だと思いたい。
2年前に見た映画がありました。ニューヨークで、どうしようもなく荒れ果てた中学校に校長先生がやってきて、誇り高く良い学校にしなければいけないと、先生と生徒で頑張っていく…という映画だったんですけれど、その中で印象的なのは、もうどうしようもなく、すぐに外に出たり遊んじゃう男の子に対して、校長先生が何回も言います。「立て!来い!校歌を歌え!」生徒はグズグズと歌います。「きちっと歌え!誇り高く歌え!」と校長先生は言いました。ドキッとしました。「誇りのない奴は、生きててもしょうがない。犬や猫とおんなじだ。お前はお前の誇りを持て!この学校に居ることに誇りを持て!そのために誇り高く校歌をうたえ!それができないようじゃ死んだほうがましだ!」すごい言い方をしてました。ドキッとしました。
八尾北の校歌も、生徒は誇り高く歌っているだろうか。もっとドキッとしたのは、ぼく自身が誇り高く生きているか?ということでした。ぼくの誇りって何だろうと…。トライアスロンで日本で一番になったときは、誇り高いと思いました。そのあと、300人の中の250番目になったとき、ダメだと思った自分がさみしかったです。250番は250番で堂々と立とうと、この頃思うようになりました。
このあと、ぼくも売れなくなるかもしれませんけれど、テレビで見なくなろうと、ぼくはきっと歌って誇り高く堂々と生きてます。一等だから偉いわけじゃない、一等は誇り高い、でも最下位でもぼくは誇り高く立っていようと思います。売れようが売れまいが、私は私なんだって、この頃わかりました。
誇り高く歌える歌であって欲しいと…。歌が10年経つと、ぼくも10年経っています。今日は、どんなふうに歌えるか、楽しみにしてました。丁寧に歌いながら、この10年間を3分間で思い出そうと思います。(以下、校歌)

 さらに10年の月日が流れ、平成14(2002)年には創立20周年を迎えました。記念誌の対談で、ある教員はこう語っています。
「校歌のインパクトは強かったですね。10年目ぐらいまでは初期の頃の先生方と、高石ともやさんの思いが生きていたんです。その中で学校が成長してきて、10年を区切りとして校歌が学校になじんできたと思います。そこからは自分達で校歌を咀嚼していきながら自分なりに校歌の意味を求めるような、また見つけられるような、そんな学校に変わっていったんじゃないかと思います。」

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